夏休みに入ってから一ヶ月近く。だが、もう半年も一年もここを訪れていなかったかのような錯覚に陥る。
建物に変わったところはない。机も椅子も夏休み前のモノだし、パネルにも目新しいものはない。
なぜだろう?
わからないまま、ゆっくりと机をまわった。何もすべきことがなく、ふと改めて飾られたパネルへ視線を移す。
じっくりと眺めるのは、初めてかもしれない。
真留駅…… という名の駅。
この一帯の昔の名で、本当はマコトドメと呼ばれていたのが訛った呼び名らしい。
路面電車が全盛期だった頃の写真には、時代を感じさせる髪型や衣服に身を包んだ乗客たちの姿が見える。開通した当時の写真は、白黒だ。
パネルの横には、路面電車の簡単な歴史説明などの最後に、現在の所有者の名前が小さく記されている。
霞流 栄一郎
これが、霞流慎二の祖父の名だろう。
以前霞流邸の食堂で、車椅子に頼る姿を遠目に見たことがある。同じ建物の一つ屋根の下で暮らしていた期間もあったが、言葉を交わしたことはなかった。姿を見たのもあれ一度きり。
いや、違う。
右手の人差し指を唇に当てる。
朝日を浴びる庭で、慎二と共に美鶴に背を向け――――
だが記憶は、車椅子に手をのせる慎二の姿ばかりが鮮明に蘇る。
どうしているのだろう?
そう思う自分に叱咤する。
気にして、どうするというのだ。
脳裏に浮かぶ薄茶色の髪の流れを振り払うように、目の前のパネルへと視線を戻す。
この写真の世界を、あの老人も経験したのだろうか?
したに違いない。だからこそ懐古の念に囚われて、この駅舎を買い取ったのだ。
だが、いくら当時を懐かしむと言っても、こんな大して役にも立たない建物を、わざわざ市から買い取るなんて。
車椅子に頼る生活だ。彼がこの場所を訪れること自体、そうないだろう。
でありながら、今も手放そうとしないのは、それほどこの駅舎に何か思い入れがあるということだろうか?
慎二も、祖父が亡くなるまでは手放すつもりはないと言っていた。
――― どのような思い出があったのだろうか?
いつもは予習復習に追われ、またしつこく付き纏う瑠駆真 や聡の相手に気を取られ、建物自体に思いを寄せたことはなかった。
駅というのは、出会いや別れの場でもある。切ない思い出の一つがあっても、おかしくはない。
広くはない建物だ。すべてを見尽くしても、それほどの時間は経たない。
しかたなく椅子に腰を下ろし、机にうつ伏せた。
帰りたくないな
陽が高く昇り暑さが増し、蝉の鳴き声がビービーと耳を責め立てる。だが、誰も来る気配はない。
公園の向こうの木陰が存在するあたりには、人の姿もあるのだろう。だが、奥まで入ってくる人はいない。
閉め切っているので、正直かなり暑い。
額や項を汗が伝い、Tシャツはじっとりと湿っている。シャンプーの香りなどは、微塵も残っていない。
だが、帰りたいとは思わない。
このままずっと、永遠に一人のままならいいのに。
身を起こし、今度は両手で頬肘をつく。
自分の手の感触が、もっと大きな手のそれとすり替わる。
目を閉じる。
聡とキスをしたのは、これが初めてではない。前の時も、こんな風に強引だった。
人を好きになった経験は、美鶴にもある。だがあのような感情は、理解できない。
聡は、本当に私のことが好きなのだろうか?
頑固なほどにそういう疑問を胸に湧き上がらせる。
だって、認めたくないのだ。
わからない………
大きな手。そう言えば、瑠駆真の手も細いが大きく、美鶴よりよほど力強い。
恥ずかしいような気苦しいような、胸から競りあがる何かに押しつぶされそうな気がして、思わず大きく息を吐いた。
そうして再び、うつ伏せた。
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