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【アラベスク】  第5章 古都の夢



第2節 再会は甘く優しく [3]




 夏休みに入ってから一ヶ月近く。だが、もう半年も一年もここを訪れていなかったかのような錯覚に陥る。
 建物に変わったところはない。机も椅子も夏休み前のモノだし、パネルにも目新しいものはない。
 なぜだろう?
 わからないまま、ゆっくりと机をまわった。何もすべきことがなく、ふと改めて飾られたパネルへ視線を移す。
 じっくりと眺めるのは、初めてかもしれない。
 真留(まこどめ)駅…… という名の駅。
 この一帯の昔の名で、本当はマコトドメと呼ばれていたのが訛った呼び名らしい。
 路面電車が全盛期だった頃の写真には、時代を感じさせる髪型や衣服に身を包んだ乗客たちの姿が見える。開通した当時の写真は、白黒だ。
 パネルの横には、路面電車の簡単な歴史説明などの最後に、現在の所有者の名前が小さく記されている。
 霞流 栄一郎(えいいちろう)
 これが、霞流慎二の祖父の名だろう。
 以前霞流邸の食堂で、車椅子に頼る姿を遠目に見たことがある。同じ建物の一つ屋根の下で暮らしていた期間もあったが、言葉を交わしたことはなかった。姿を見たのもあれ一度きり。
 いや、違う。
 右手の人差し指を唇に当てる。
 朝日を浴びる庭で、慎二と共に美鶴に背を向け――――
 だが記憶は、車椅子に手をのせる慎二の姿ばかりが鮮明に蘇る。
 どうしているのだろう?
 そう思う自分に叱咤する。
 気にして、どうするというのだ。
 脳裏に浮かぶ薄茶色の髪の流れを振り払うように、目の前のパネルへと視線を戻す。
 この写真の世界を、あの老人も経験したのだろうか?
 したに違いない。だからこそ懐古の念に囚われて、この駅舎を買い取ったのだ。
 だが、いくら当時を懐かしむと言っても、こんな大して役にも立たない建物を、わざわざ市から買い取るなんて。
 車椅子に頼る生活だ。彼がこの場所を訪れること自体、そうないだろう。
 でありながら、今も手放そうとしないのは、それほどこの駅舎に何か思い入れがあるということだろうか?
 慎二も、祖父が亡くなるまでは手放すつもりはないと言っていた。
 ――― どのような思い出があったのだろうか?
 いつもは予習復習に追われ、またしつこく付き纏う瑠駆真(るくま)
(さとし)の相手に気を取られ、建物自体に思いを寄せたことはなかった。
 駅というのは、出会いや別れの場でもある。切ない思い出の一つがあっても、おかしくはない。
 広くはない建物だ。すべてを見尽くしても、それほどの時間は経たない。
 しかたなく椅子に腰を下ろし、机にうつ伏せた。
 帰りたくないな
 陽が高く昇り暑さが増し、蝉の鳴き声がビービーと耳を責め立てる。だが、誰も来る気配はない。
 公園の向こうの木陰が存在するあたりには、人の姿もあるのだろう。だが、奥まで入ってくる人はいない。
 閉め切っているので、正直かなり暑い。
 額や項を汗が伝い、Tシャツはじっとりと湿っている。シャンプーの香りなどは、微塵も残っていない。
 だが、帰りたいとは思わない。
 このままずっと、永遠に一人のままならいいのに。
 身を起こし、今度は両手で頬肘をつく。
 自分の手の感触が、もっと大きな手のそれとすり替わる。
 目を閉じる。
 聡とキスをしたのは、これが初めてではない。前の時も、こんな風に強引だった。
 人を好きになった経験は、美鶴にもある。だがあのような感情は、理解できない。
 聡は、本当に私のことが好きなのだろうか?
 頑固なほどにそういう疑問を胸に湧き上がらせる。
 だって、認めたくないのだ。
 わからない………
 大きな手。そう言えば、瑠駆真の手も細いが大きく、美鶴よりよほど力強い。
 恥ずかしいような気苦しいような、胸から競りあがる何かに押しつぶされそうな気がして、思わず大きく息を吐いた。
 そうして再び、うつ伏せた。







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